「アジャスト」で、笑う。

「現場に起こることに、アジャストすることを楽しむ」 (TV番組内での俳優の言葉)

「放課後等デイサービス」という場所で、子どもたちと大人が関わり、過ごす、異年齢の時空間。日々、そこでどんなことが行われているのでしょう。着脱や排泄、食事に関する身辺自立、掃除や家事、金銭管理等、整理整頓等の生活自立、集団活動においての自他認識。ハタマタ感覚統合やら書字障害やら視空間認知やら、ABAやTEACCH、SSTに基づいた対応や構造化やらetc・・・人それぞれ、場所とりどりにいろんな活動や促し、支援があるのだと思いますが、こうした職員個人個人の知識や経験・思いをベースに、場の活動のキーワードとして集団や個別、課題設定や自由遊びの中で、多くの事業所が子どもたちの時間に日々、寄り添っていたりするのでしょう。

社会の中での場や個人には与えられ、担う役割もあるでしょうから、それぞれの場や個人において、知識を育み、経験を積み重ね、意義や意味のあるより良いサービスの提供に努められたら、とは思います。さてその一方で、こんな声もありまして。前勤務先での保護者アンケート結果です。「どんなことをして欲しいか」との問いに、上位にあがった答えが、「特になにも望まない。やるべきことは学校でしているので、ただのんびりとさせて欲しい」 「本人がゆるり・だらりとしたければ、そうさせて欲しい」・・・この声の是非であるとか、どの場でも同様の声が出るという話ではありません。当事者家族を含めた児童本人の思考・感情、場の捉え方は、実に多様だということです。保護者のレスパイトとしての場所であったり、働く保護者の生活(時間)支援としての場所だったり。あくまでも、この場は、子どもたちの生活時間のごく一部、利用曜日(週2とか週1とか)の中の数時間、過ごす場所。その中で、当事者家族が望まないことを押しつけたり、生活動作や身辺自立について、ご家庭での訓練や意思があまり感じられなかった場合、ここでできないことができるようになることはいいことですが、個々の児童の度合い的になかなかに難しく、本人にとって大人の対応が苦痛であるかもしれないと思われる場合、療育や放デイの役割等を盾に、行動を強いることになるのでは? そこに、個人の思い入れ・思い込みからの傲慢さはないだろうか? 相手の多く、ここに来る児童は言葉を上手に返したり、「ここを助けて」と言動にできない人たちだということは胸に置かなければならないと思っています。たとえば靴やカバンの着脱ひとつ、おやつの際にお菓子の袋開けのひとつ、自分でできない、しようとしない児童に対して、声かけが入らない場合、集団行動の中での限定された時間内で、どこまで見守り、どのくらい手伝ってあげるのか。それを手伝うことで、次の動きの一助となるならば、その子にとって手伝う方が良いことだってあるのでは?と思います。放デイという場所が楽しく、児童の可能性を引き出す場所であっても、修業の場所じゃないですよね。

放デイは放デイとしての社会的意味や使命感をもって、児童や場に向かうことは大切だとは思います。ここは教育機関でもなければ、療育専門機関でもありません。「お預かりサービス」の一環としての活動時間に、どんな遊びの中にも「集団」や 「他児童との関わり」の中での行動での約束事や順番を守る、譲り合うなどの療育的な要素は少なからず含まれています。

個人的には、自己肯定感や自尊感情、小さな成功体験を積み重ねながら、児童本人の居場所、セカンド・サードスペースとして利用してもらう。お互いの大らかな関係をもっての、組織としての大人の、職員個々の経験知が子どもたちの育みの一助足りうる、くらいに考えてもいいのではないか。そう考えています。偏った知識や個人の経験だけで、療育や目的にこだわり過ぎて、大人が子どもの自由闊達、奔放に向かっても行き詰ってしまう。目の前にいるこの子を、自分の考え・思いのままに動かしていきたいというところにとらわれてしまうことにもなります。

で、自らの人生を振り返っての、流れる日々をとっても大小の問題・課題が山積みで、予め起きうるだろうの予知と対策、対処法を講じないわけでもないのですが、そう甘くはないのです。当然のことなんですが。であれば、日々にアジャストして、人や物事に対して、自らがワハハと笑える術(すべ)を身につけていくことが肝心かなぁと思っています。一個の人間が毎日、生きる・過ごす「時間」について、物理的な公私の区分けはあっても、本人を内的にここまでは公の私で、ここからは私としての私などと、意識的に精神面・マインドを区分けして存在してはいない。だから、どの場所でも個人の同じ面(特質)が表れてしまうのかもしれません。

「いい加減は、イイ加減」という言葉もありますが、大人がイライラしない、動じないための思考性のヒントの一つが、この「現場(自分が対する人・場所など)に起こることにアジャストする」にあるのではないかと思っています。そのマインドは、対する児童にも反映されたりもするのではないだろうか。そう考えています。ちょっと前、個々の児童の様子(不安定やテンション高など)などをみて、公園遊びの予定を取りやめ、全員で室内でできること、机の活動や手遊び歌での関わり遊びなど、できることをしながらのんびりと過ごした日がありました。そういうことだって、「現場にアジャスト」を行動のキーワードとしてもっているだけで、捉え方も変われば、児童の違う一面を見られる機会かもなどと思えるようになるのではと考えています。

※このブログは、複数の職員が当事者の視点で綴っています。


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