「多様性」の時代の中で。

「生きる強さ、たくましさ」ってなんだろう?
と唐突に訊かれたら、どのように答えますか?

答えはいろいろだと思いますが、その中の一つであるかもなのが、「寛容さ」なのかもしれません。
たとえば、こんなこと。自分のことを誰かが笑っていたとしたら、自分も笑っている他者の側に一度立って、すこんと一緒に自分を笑いとばしてしまう。そんな自分で居られたら、どうでせう。

「受容する強さ」というものがあれば、人と人との関係性や、自分を開くことで新たに他者やなにかとつながる可能性が高まることもあるのかもしれません。

近年、「多様性」という言葉をあちこちで耳目にするようになりました。横文字では、「ダイバーシティ」(ダイバーの集まる街…ではないようです)とも言われていますね。

「多様性を育てる」「多様性を認める」「多様性を活かす」「多様性を受け入れる」「多様性を考える」「多様性を受けとめる」「多様性を守る」「多様性を伝える」「多様性を維持する」・・・
いろんな言われ方をしているようですが、福祉や医療、女性の社会的立場などの他、多面的に発信されています。その意図するところは大方、同じ方向を向いていて、大まかに言えば、多様性とは「いろんな人や考え方を尊重する」ことなのでしょう。
世の中には、いろんな考え方や意見、感情をもつ、いろんな立場の人が居て、時に少数派、マイノリティに位置する場合でも、安易に排除という方法に走るのではなく、できるかぎり、お互いの心地よい在り方を探っていこう、ということなのでしょう。

と、頭でもっともらしく考えることはできるのですが、さて・・・

人が人と暮らす社会は、制度やしくみ、その場の約束事の中で、ある括りを設けながら動いているところがあります。物事や複数の人が関わり合う、多くの場で言えることだと思います。公私の場をできるだけ潤滑に動かしていくためには、多数の価値観や声に基づいていかなければならない必要・状況が生じます。仕方がないという言い方が適当かどうかはわかりませんが、そういうことは社会、世の中に身を置いて生きる中で数限りなくあります。

たいせつだと思うのは、ここで、そのことに意識的でいられるか、です。

「大勢(自分)の思う、感じるように、人(あの人)は思いも、感じもしない」 

「同じようでも、一人ひとり、違う」

物事や場を進めるために括りは必要でも、そこに個々に違う人がいる。その存在を受容していくことは忘れないようにしたいもの。

多様な人の、多様な考え方、感じ方を認めながら接していくことは、人としてのエネルギー、熱量が要ることですが、違いを受容することで、他者への寛容さが育まれ、他者に寛容であることで、自分への(弱さの)寛容さにもつながり、多様な人を受け入れていくことで、大らかに日常を泳いでいく・・・なにかにぶつかって凸凹とへこんでもへこんだままではいない、人間としての吸収力を増しながら生きていく強さを得ていく、ような気がしています。

私たちが位置する場でも、さまざまな特性の児童と日々、接しています。私たちのような場所だけでなく、いま社会全体が、「寛容さ」を通しての、人と人との関わり合いの見つめ直しを問われているように感じています。

※複数の職員が、日々の活動を通してそれぞれの視点で綴っています。

放課後等デイサービス くまさん横浜


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