DoingとBeing

DoingとBeing


【Doing(行為)とBeing(存在)】

 日々の暮らしを育む中で、公私生活での汗や涙、不安や焦燥感、悔み、そして勇みや和み、微笑みと共に、いつしか手にする言葉がある。生きる拠り処とも言えるライフワードに出合います。

 

表題のワードも、その一つ。
この2つを混同しない。人に対して、ということです。

「Doing」は言動であり、Beingはその人の存在そのものをさします。

私たち人間は、過ちを犯すもの。さらに言えば、自分にとっての「正しい」が、誰かにとっての「間違い」であったり、ある種の嫌悪感を与えたりする時もあります。

また、私たち人間には、感情があります。ただし、それをつねに豊かに穏やかに使えずに、相手との関わりの中で、時に「負の状況」にお互いを陥れることもあります。

私個人は、上記の2つをあくまでも「Doing」として受けとめています。人と人とが居て、お互いに違う環境で生まれ、育ち、同じ物事を見た時の感覚も、考え方も、感情も違う。それが当たり前。たとえば、長く同じ環境に暮らす家族間では、とくに元々が血のつながりのない夫婦間ではどうですか?

「違う」ことが前提なのです。でも、私たちは長く暮らす中で、「Doing」と「Being」をごちゃ混ぜにし、Doingにより、いともたやすく他者の「Being」を否定しまうこともあります。これは意識的でないと、多くの人が陥りやすいことだと思っています。とくにネット社会が普及した現代では。

子どもたちを、「子ども」ではなく、「一人間」として相対した時、正直に言うと、ただ可愛い、素晴らしいばかりではなく、その言動に対して怒りに近い感情を覚えることもあります。

ただ、彼ら・彼女らのほんとうに素晴らしいところは、職員の好き・嫌いの感情は個々にあったとしても、けっして「存在」を否定することはない。少なくとも、この不完全際まりない、子どもより子どもの大人と言われる私ですら、その思いをしたことがない、そう言い切れます。子どもたちは、言動・リアクションの濃い・薄い、発語の多少に関わらず、人間好きの、人間肯定派だろうと感じています。

 

このことは、私たち大人が、児童だから、発達に課題をもっているから、などと上目線でみるのではなく、一人の人間として学ぶべきことだと考えています。日々に反省と自己嫌悪をいだくことも少なからずありますが、子どもたちを通して、いまあらたに、「Doing」と「Being」を思うのでした。

 

この思いを忘れない限り、人は人を好きで居られるし、場合によっては、お互いの関係を再構築することも可能なのだと思います。

【本日の届け曲♪】 ひょっこりひょうたん島
https://goo.gl/chyOAT
生きて見てきたTV番組の中で、連載終了を知って、これほど寂しい哀しい思いにかられたことはありませんでした。旧いではなく、質の高いものを観てきた。
そんな自負を覚える番組でした。

 

※くまさん横浜のブログは、複数の職員が日々の活動を通して、各自の視点で綴っています。


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