笑者(しょうしゃ)。

笑者(しょうしゃ)。


【 笑者(しょうしゃ)。】

 

その人が、なにを笑うのか。

 

仕事や私生活、政治や行政、地域社会の中で、人が人を評して笑う。

誰かの成功や失敗に、喜びの、皮肉交じりの笑いを向ける。

寄席や劇場などへ、お金を払い、足を運び、笑いの賑わいを求めて笑う。

他者同士が連れ違う道で、エレベータ内で、なにげなく微笑みを交わす。

 

私たちは日常、意識せずとも、「笑う(笑い)」を他者との関わりに用いています。人を揶揄したり、上下関係をつくるために嘲笑したり、誰かや自分を元気づけたり、社交や協調、共感など、様々な社会生活の中で、「笑う(笑い)」が起こっています。その善し悪しを別に、人間が思考し、感情をもち、人と関わる生き物である以上、「笑う(笑い)」は、生活のあらゆる場面で絶えず続いていくことでしょう。

 

「笑う」について、ずっと前から思っていることがあります。

じぶんを笑う、「笑い」です。

自分を、もう一人のじぶんが、スコンと笑いとばしてしまう。

 

たとえば、降りかかる困難・難題の中で、悪戦苦闘・凸凹する自分を、なかなか思い通りに事が行かない自分を、時にその滑稽さを俯瞰的な眼で笑ってしまう。「私はタイヘンなんです、不安感・不幸感でいっぱいです」…そう思いたくなるような時は、誰にでもあったりするもの。ですが、そんな時にこそ、笑うことで周囲をその渦に巻きこんでしまい、その場の体温を自分の活力に変えていく力が要るのかもしれない。

 

自分を笑える力はその人のたくましさを表している、と言ってもいいではないか。

「幸福だから笑うのではなく、笑うから幸福なのだといいたい」(「幸福論」アラン)

という言葉もあります。

 

「笑う」という行為に、自・他の脳が「ワハハ」と揺さぶられ、体内を巡り、生きる某かの力を得ている。そんな感じがしています。でも、これ、もう常に思っていながらも、そうできない時もある。日々に努めて意識的でなければ、自然体で身につくものじゃないのです。その人の柄とはならないのです。

 

そんなことをあらためて思って、周りをみれば、私たちは日々、子どもたちと接する機会を得ていることを思い出す。子どもたちは個々に発達に課題をもち、関わりの中で、活動や対応、関係が上手くいくことも、そうでない時もあります。

上手くいかない時、子どもたちの反応が自分の行いの鏡だとすれば、まずはその状況を素直に受認して、自分の在り様を笑い飛ばしてみる。それだけで、なにかが大きく変わることはないでしょうが、少なくとも自身がつくった薄っぺらい気持の壁は突破らわれ、子どもたちに向かうやわらかさにもつながっていくような気がします。

 

「笑う(笑い)」を鍛えることで、自分も、人との関係も育んでいる。

 

 

【本日の届け曲♪】 気持ち

https://goo.gl/IQFdWb歌詞の中で、

♪どんどんどん さまよう心 みんな ♪かんたんな言葉で 唄にしたい というところがとても好きです。

 
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