混じり合う

混じり合う


「障害とは?」

「障害をもつ人の『障害』とは、機能的な障害が問題なのではなく、社会参加するときに障壁となるものの問題である。つまり、障害をもつ人にとっての障害とは、社会問題である」(障害をもつ人の権利に関する条約から)

「障害をもつ人が、障害をもたない人の社会の中で生活するときに生まれるもの。『できない』のではなく、『支援が必要』であるということ」(国立特別支援教育センター(今も?) 笹森先生の講演から)

上記は、子どもが中学生の時、特別支援コーディネーターを務める先生方と、初めて面談した際に渡した書面の一部です。親の会に属していた私としては、「学校は、子どもをサポート・応援してくれる味方である。お互いの立場での考え方、感じ方の違いはあろうとも、それは変わらない。子どもと大人、いろんな人間が、学校という時空間を通して『混在』『混(交)じり合う』こと…一緒に考える機会を

つくるなどして、子どものかかえる『社会での生き難さ』への理解を深めてもらえれば」との想いもありました。社会の在り方への願いでもあり、一親としての願いでもありました。当時、自営業をしてこともあり、時間に都合をつけては時々、学校に伺い、先生方とお話させていただき、とてもお世話になりました。

意識していたのは、「こちらから混(交)じり合う=働きかける意識・姿勢をもつこと」。「社会問題」は、子どもが(共に家族が)社会参加をしようとする中で起こるもの。今でもそうですが、年齢・場面ごとでの「理解され難さ」「生き難さ」が生じます。今後も一個の等身大の社会問題として、親が一緒に考え、動いていくしかないのだと思っています。

ある情報紙に載っていた話です。車椅子での生活を続ける女性が、仕事で福祉先進国と云われる国に行き、プライベートの時間で街や施設の様子を見に出かけたそうです。視察する前は、福祉先進国というからにはさぞや様々な設備も進んでいるのだろうと。ところが、信号機や階段スロープ・昇降機等のハード面では日本の方がずっと充実していた。そこで同行の人に「どうして?」と訊いたところ、「道行く人に、『そこの階段の上まで行くのを手伝って』『道を渡るのを手伝って』と声をかければ、みんな気軽に応じるから、そんなに困ってないと思うよ」と。

もちろん設備は進化・充実している方がいいと思いますが、以前の根幹を成す「意識」の在り方に触れた話だと思いました。大きく捉えた「社会問題」「混在の有意義」も、日本でもまだまだ意識改革が必要なのでしょう。

子どものかかえる生き難さを知る一親としては、今後も身の丈、等身大での社会問題に一つ一つリアルに向き合って、一緒により良い社会参加の道を拓いていくしかないと思っています。


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