人の間。

 「人間は最終的にとことんのところ何を欲しているのか。それは世に理解されることであり、世に認められることである。理解され認められれば、その心ゆたかな自覚を梃子(てこ)として、誰もが勇躍して励む。それによって社会の活力が増進し誰もがその恵みにあずかる。この場合、世間とは具体的には自分に指示を与える人であり、働きを共にする同僚である。この人たちから黙殺または軽侮されるのは死ぬより辛い。逆に自分が周囲から認められているという手応えを得たときの喜びは何物にも替え難い。他人(ひと)の気持ちを的確に理解できる人を人間通と謂う。人間通を身近に見出せることは幸福の最たるものであろう」  (谷沢永一 「人間通」より)

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「人という生き物は、悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。人に嫌われることをしながら、いつもいつも人に好かれたいと思っている」
(池波正太郎の人間観に関する言葉)

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「お父さんが子どもに対して確信をもって怒れるというのは、「正しい」以上のものを持ってるからですよね」(ほぼ日刊イトイ新聞 対談「25番目のピース」の言葉から)

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 人と人の間に在るもの。一個の人間が抱えるもの。

 それぞれが意識的・無意識に内在している、その身の内と外にもつ不条理や、日々を生きていく中での太陽と月の在り様。それぞれの、自らの「正しい」への傲慢さと疑い。

 大人と子どもが一堂に会す、放課後等デイサービス・・・ではありますが、日々対する中で感じているのは、年齢をこえて、各様の正誤や感情、自我をもった人と人が交わっているのだということ。児童だから児童らしい言動をとるとは限りません。大人だから大人のつねに振る舞いができるとは限りません。時に、それは人としてどうなのか?という場合もないことはないです。みんなお互いさまです。その時、人としてどうしてそのような行動をとってしまうのか、と大人・子どもの垣根をこえて、一人の人間として目線を同じにして考えてみることも必要なのでしょう。

人は、生まれもった本能的な欲求として、「認められたい」・・・それが、他者との関わり合うことでもあり、社会の中で、自分が在ることを受容できるのでしょう。一個の人と人との関わり合いなのだから、障害や有無や年齢をこえて、誰もの心に在ることだと思います。

 わかったようでわからないことだらけの人間。この途方もなく正体の知れない、愛すべき「人」の存在をちゃんとみろ、と言われているような気もします。(反省)

 以上、わかって欲しいというより、一個の人間が、一個の人間と日々、相対し、感じていること・・・気持ちについて、なにか伝われ、の想いであります。

※本記事は、複数の職員がそれぞれの視点で綴っています。


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