離れて、自撮る。ことで

「離見の見」を、胸にもって暮らすことで、自らに語りかけてくるもの。

離見の見」=客観的に、他者の眼で自分をみる姿勢をもつこと(関心のある方は検索を)。あるいは、自前の解釈として、もう一人の自分(幽体離脱?)がビデオカメラをもって、“本体”の背後で日々の様子を撮り続けている。誰かと話したり、何かを一緒にしていたり、日々の言動を「自撮り」ing していることを意識することで、自らにもたらされる心の常態。と、私的認識をしています。

じゃぁ、そんなことをすることで、どんな日常の面持ちになるの? と訊かれたら、まずは 「自分の弱さを、あらためて知る」ということだと感じています。日々の喜怒哀楽の中に、時に家族を含めた他者や物事への虚勢、我儘な態度、逃げの姿勢・・・おそらくそんなことも顔を出していることも長い人生の中ではあったことでしょう。

そういうことを自らが認め、受けとめてあげた上で、あらためて現在進行形で日常の「自撮り」を自覚していく。と、日々の中で上手くいかないこと、叶わないこと、認めらないこと、もしかしたら小さな消え入るような存在?とつい思ってしまうこと・・・その多くが、自分の努力不足だとわかってはいても、誰もが自分の容量の上限まで挑む強さをもってはいないこと、挑むにも既に多くの生活上の負荷を背負っていることもあり、同時進行にて儘ならないこともあるということ。などを素直に認められるようになっていく。放棄や、あきらめや、脱力感とは違います。

自分だけではなく、周囲の人も弱さをかかえて生きている。ということを、より気を入れて他者をみつめることができるようになってくる。そんな感じがしています。

私たちの場所に通う児童の皆さんは、社会の中で生きる上でのさまざまな発達の課題、弱さをかかえています。当事者家族の皆さんも同じです。私自身も、子どものこれまでの学校生活を通して感じてきたことです。

弱さを知る一個の人間が、「放課後等デーサービス」という場で、児童と関わっていくことはどういうことなのか? 保護者の皆さんや職員、地域の人たちと交わるとはどういうことなのか? 明快な答えがすぐには出ないと思います。

ですが、そのことで、活動や身辺自立・向上の支援を通して、他者と接する許容量、愛おしさ・・・実は子どもたちから、発達の課題を通して、そこにある障害の有無をこえた、人間の根源的な育みの課題があることに気づかせてもらっている。そんな時間をもらっていることに、「ありがとう」の想いが湧いてくるということはお伝えしておきたいと思います。

※本記事は、複数の職員がそれぞれの視点で綴っています。


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