エコラリアとコミュニケーション

エコラリアとコミュニケーション


 

【エコラリアとコミュニケーション】

 

人と人との「コミュニケーション」は、なにをもって成り立っているか?

 

想い・考え、方法等を言葉にし発する人と、受けとる人がいて、その内容への共通の認識のもとにやりとりが成立する。お互いが違う意見だとしても、内容のもつ意味の共有化を軸にして、双方の考えを交わすことになります。

機能的な意味合いからは、そのようなことだと思います。

 

で、私たちが子どもたちと関わる場で、耳目にする状況は「コミュニケーション」の視点からどうなのだろう? 「エコラリア」(オウム返しの状況)。自分に向けられた言葉を、全て・部分的に繰り返す即時性エコラリア。CMや音楽・単語・言い回しなどをなんらかの法則・機会とは無関係に繰り返す遅延性エコラリアなど。

 

一例として、

(職員)「おやつ食べた?」 (児童)「まだだよ」→ (職員)「みんなと一緒に食べよう。まず手を洗おうね」 (児童)「わかった」 

が通常のやり取りだとしたら、

 

(職員)「おやつ食べた?」 (児童)「おやつ食べた?」→ (職員)「みんなと一緒に食べよう。まず手を洗おうね」 (児童)「まず手を洗おうね」

 

「会話」×「コミュニケーション」でみれば、上記は成立していないのでしょう。

お互いの言葉のやりとりの中で、繰り返しの言葉を多用する児童を前にした場合、

大人がやりがちなのが、「わけがわからないことを言うなぁ」…正直に言うと、私自身も「その繰り返しのもつ意味」については、ん?と思うことはあります。

 

専門家によれば、繰り返しの言葉を通して、喜びや不安を表したり、自分の感情をコントロールしたりしている場合もあり、そうした研究もされているのだそうです。双方の言葉のやりとりの中で、一見、言葉のキャッチボールにならなくても、そこには児童の多様な気持ちが込められているのでしょう。

 

「コミュニケーション」を、相手が相手を想い、発する、という視点で考えれば、子どもたちのエコラリアは、私たち大人に、考える機会を与えてくれている、その意味でのコミュニケーションと言ってもいいのではないのでしょうか。

 

私たちは児童コミュニケーションに精通した学者でも、完全無欠な人間でもありません。だから、このエコラリアと接する中で、意味を読み取れなかったりする場合もあります。

たいせつなのは、間違えないことではなく、考えないことだと思います。日々の児童との接点の中で、“思考”錯誤しながら、より良い関係を育んでいけたらいいなと思います。

 

※このブログは、複数の職員がそれぞれの視点で日々の活動の想いを綴っています。

 


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