自分の感受性くらい

自分の感受性くらい


 

【自分の感受性くらい】

 

子どもたちは、それぞれに発信している。

 

発語・日常動作や、人との関わり方や、不安反応や、環境変化に対する適応や…

いろんなシグナルを毎日の活動の中で送っています。

一週間の中で複数日接する児童も多く、児童・職員とのお互いの関係も出来てきて、子どもたちの微妙な変化に気がつけない場合もあると思います。

 

「感受性」・・・感じて、受けとめる、チカラ。とすれば、

子どもたちの発信を、受けとめる側のアンテナが錆びついたりしていれば、とらえることはできません。公私を問わず、家族間や親しい友人との関係についても言えることでしょう。

 

日頃、人と人との関わりにおいて、「発信」への言及や意識をもつことは多いけれど、「受信」の感度を育み、磨くことについて、どのくらい想いを向けているものでしょう? そのアンテナ、受けとめるハートの容量によって、人は人の、考動の意味を、相手の本意を、より深く感じとれることもあるのだと思います。

 

思い出すのが、茨木のり子さんの名詩「自分の感受性くらい」 です。

 

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ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな

 みずから水やりを怠っておいて

(中略)

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

 

(中略)

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

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人の、何某かの「発信」を感じとる、というとき、たとえば子どもたちなら、

発語に課題のある児童の言葉数が増え、やりとりの内容に変化が表れた。歩行に難があるが、足取りが少しずつ確かになってきた。人との関わりが苦手だが、ゆっくりと心を開き、他者との関わりが増えた など。

 

上記のような事例は、わかりやすいでしょう。視覚的に見えることで、それを日々の成長や喜びとしてダイレクトに感じとることができます。

一方、目に見えにくい子どもたちの成長、凹凸の凹の感情・気持ちなど、表面化・前面化しないこともあるでしょう。障害の有無、児童・大人を問わず、言えること。

 

心理学の専門家ではないけれど、そんな思いにアンテナが動くのか、動かずにスルーしてしまうのか、その正誤(自分がどう感じたかの)を問うより、人間(人の間)として必要なものがあるような気がしています。

 

感じとる人で在るためには、どうしたらよいのだろう?

 「感じるを、意識する」ことなのでしょう。日常生活の凡事を意識的に感じたり、読み取ったり、「今日の 小道の たんぽぽ咲いた」と日々のなんでもない道ばたの風景に生命の息吹きを感じたりする眼を自らの中で育んでいくことが必要なのでしょう。

「なんでもないけれど、元気かな?」と、誰かからメールがきたら、相手と自分の間に、相手が自分のことを想い、使った時間があることを、まず感じる。

 

そんなさまざまな感じるの延長線上に、子どもたちと対することもあり、いつもの笑顔の中にもあらたな変化を感じとることがあるのだろう。そう思っています。

 

【本日の届け曲♪】 あの鐘を鳴らすのはあなた

 https://www.youtube.com/watch?v=swmKoIQF-wI

 
※くまさん横浜のブログは、複数の職員が日々の活動を通して、各自の視点で綴っています。


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